信州に出かけてこれまで巡った茅野や諏訪のあたりからは八ヶ岳を隔てて反対側にあたる長野県南佐久郡佐久穂町にたどり着きました。佐久穂町というのは、佐久町(佐久市とは別の自治体)と八千穂村が合併して人工的に造られた地名ですので、「ん?!」と思うところはあるものの、東京で言えば「大」森と蒲「田」がくっついて「大田区」ができたようなもので、馴染んでしまえば…てなことでもありましょうかね。

 

 

町内にはJR小海線の駅が4つありますが、そのうちの八千穂駅前で小休止です。今を去ること35年あまりも前ですかね、一度だけ降りたことがある駅で、ちと懐かしい気もしたものですから。折しも、数少ない運行本数(鹿児島の指宿枕崎線ほどではないですが…)の小海線の車両がやってきましたですよ。

 

 

初めて来たときにはこの列車で八千穂駅に到達(今回は車移動ですのでね)し、なんだか「はるばる来たなあ」感を抱いたものですが、そそくさと駅前からバスに乗って向かったのは八ヶ岳の麦草峠。そこから山裾の雨池というだぁれもいない分、神秘的な池を巡ったあと、縞枯山を巻いて北横岳(2480m)に登り、ロープウェイで蓼科側に下山したのでありました。このコースを辿るには、中央本線の茅野駅から麦草峠にアプローチするのが一般的でしょうけれど、敢えて往路復路が同じにならない周回コースで臨んだのも「若かったから…」ですかねえ(笑)。

 

てなふうに思い出に浸るひとときはともあれ、このたび八千穂にやってきたのは懐かしがるため…ではありませんで、駅からほぼ目の前という場所にあるこちらの美術館に立ち寄るためでありましたよ。

 

 

しばらく改装のためクローズしていたのが、今年2024年4月にリニューアルオープンしたと聞きつけて出かけていった次第。名称は「奥村土牛記念美術館」です。ただ、画家・奥村土牛は東京・京橋の生まれですので、出自のゆかりがあるわけではないところながら、戦後の数年を八千穂村(当時は穂積村)で過ごしたことが縁であるということで。

 

 

建物の外観はまごう方無き日本家屋であるわけですが、一歩中へと入りますとエントランスばかりか、奥の間に至るまでカーペット敷きになっていて、土足で歩き廻れるようになっていたとは、リニューアルの賜物でありましょうかね。日本人としては、靴のままあがるのが憚られる気にはなりますけれど。展示の方は、デッサンなど中心に絞り込まれた感じで、わりと少なめ。ただ、リニューアル開館に合わせて開催されている「第100回作品展示」のフライヤーにもあしらわれている富士の絵が目玉と言えましょうか。

 

 

それにしても、日本画家は富士が好きですなあ。おそらくは釣り人にとっては「鮒に始まり鮒に終わる」てなことが言われるのと似て、日本画家にとっては「富士に始まり富士に終わる」てなことでもありましょうかね。館内では101歳という長寿であった土牛最晩年の姿がビデオ映像で流されていましたけれど、もはやかなり体が不自由になっていてなお、「何がしたい?」と問われれば「富士が見たい」と。すなわち富士を描きたいという意であるわけでして、ただ見る野では無くして、描くにあたってどの方向からといったあたりを、事前に写真集などでリサーチし、結果、近くで見えるところではおさまらずに富士宮まで出かけていくのは執念すら感じられたところです。連れて行く周りの人たちはご苦労だったろうと思いますが…。

 

代表作と言われる『鳴門』は70歳頃の作品、『醍醐』は83歳頃の作品と遅咲きだったわけですが、老いてなお眼光鋭い目ぢからには全くもって驚かされるところでもありましたし、筆を持って迷いのないようすにもとても老人とは思えないものが感じられましたですねえ。

 

 

と、館内ではやはり写真撮影不可ですので、庭の方をちと切り取ってみましたが、決して広くはないものの、落ち着いたいい庭園でありましたよ。

 

 

標高1000m近い場所ですので冬の寒さには土牛も参ったようながら、その分、春の芽吹き以降、鮮やかさを増す緑には土牛も目を楽しませたことでしょう。ちなみに、土牛が住まったというのは美術館になっている建物ではなしに、その離れであったようで。美術館の2階の窓から離れを覗くことができましたですよ。

 

 

離れといっても10~15畳の和室が4室ある、大きな家屋であったことが見取り図から窺えますが、日本家屋の冬、取り分け広い畳の間はさぞかし寒かったろうなあと思ったものでありました(下諏訪宿の本陣岩波家を思い出したりして…)。